仏教の開祖であるブッダ。
ブッダの言葉を、なるべく忠実に書き記したとされるものが『スッタニパータ』と呼ばれる経典です。
スッタニパータは最古の仏典のひとつとされ、比較的ブッダのオリジナルの思想(哲学)が書かれていると考えるのは妥当でしょう。後世の仏教の書物には、各派閥のさまざまな解釈などが入り込んでいるわけですからね。
ブッダの言っていることはとてもシンプルで、現代にも通ずるものが多いです。今回は、スッタニパータのなかでも、初期に書かれた部分であるとされる第4章と第5章を中心に取りあげています。
では、さっそく見ていきましょう。
◆偏見をもたない
スッタニパータ第4「八つの詩句の章」799には、以下のように書かれています(以下、スッタニパータの引用は『ブッダのおしえ』から)。
また世の中において 智慧とか戒めや誓いがあるからといって、偏った見方を正当化しないほうがよい。
偏った見方、つまり偏見を正しいものとしてはダメよと言っています。
偏見っていうのは、たとえば「べき思考」(ステレオタイプ)といったものが挙げられますね。
男とは強く生きるべき! 女は家のことをするべき! こういった○○すべきみたいな考えですよね。でも、こういう「べき思考」って、ほりさげてみるとなんの根拠もないことが大多数です。
日本文化史研究家のパオロ・マッツァリーノさんが、様々な伝統(「子供は社会が育てるもの」「祝日には国旗を掲揚するべし」「かつての日本人はおとなしかった」「日本男児は丸刈りであるべし」)を史料から検討していますが、いかに思いこみにまみれているかを明らかにしています。
そもそも「べき思考」はしんどい考え方でもあります。あんまりしないほうがいいです。以前書いたので読んでみてください→『完璧主義者が増えている!もっとゆるく考えようのすすめ』
◆比較するな
さきほどのスッタニパータ第4「八つの詩句の章」799には、以下のようにつづきがあります。
また自分を、人と比べて同等とみなすことなく、《くだらない》とか《まさっている》と思ってはならない。
比較がよくないっていうのは、アドラー心理学とかでも言われています。
基本的に比較っていうのは、相対的なものなんですよね。
自分の給料が20万円として、友人Aが25万円だとなんか負けた気がします。そこで転職して27万円の職場にうつりました。これで気持ちは爽快!かと思ったら友人Bは35万円もらってると聞いて、またおちこんで・・・みたいな。
相対的なものなんで、おわりがないんですよね。いつまでも追いかけつづけないといけなくなる。これは自分の人生を生きているといより、他人の人生に振り回されてるような側面もあるわけです。
比較するのは他人ではなく、自分自身であったほうがいいんでしょうね。
1年前の自分よりは成長したかな?とか。そっちのほうがよほどメンタル的にもいいと思います。
でも、やっぱり他人を気にしてしまうのも人間です笑
そういうときはSNSを見ないとか情報をいれないようにするもありかなと思います。
◆自分を最上と思うな
スッタニパータ第4「八つの詩句の章」797には、以下のように書かれています。
自分の中に利益を見る者は、見たり・聞いたり・戒めたり誓ったり・考えたりしても、そこで、それだけに捉われていて、他のすべてのものをくだらないものと見る。
世間の人は自分の体験や知識がもっともすぐれていて、ほかの人はくだらないって考えている(それはよくないよね)ってことですね。
医療人ではとくにこういう思考になってしまうのは、避けるように努力したほうがよいでしょうね。
医師である行岡哲男さんが、著書『医療とは何か』のなかで、「直観検証型思考」と「直観補強型思考」という言葉で、このことについて指摘しています。
「直観検証型思考」というのは、知識や体験から得られる「直観」を客観的知識(論文といったエビデンスなど)で批判的に検証することです。
たとえば、この患者さんは風邪っぽいなと直観で判断して、それがきちんと風邪の要件を満たしているかをガイドラインや論文、学術書などでチェックするみたいな感じです。
言いかえれば、直観検証型思考とは自分自身の考えを客観的(批判的)にみる態度ともいえます。そして「直観補強型思考」について、以下のように警鐘を鳴らしています。
直観体験のありありとした明晰判明さを自分の判断の正しさの根拠とするのは極めて危険です。
「自分がこのようにはっきりと感じるのだから、これは正しい」と決めつけ、批判的な検証姿勢は失われます。こうなると、普遍的な知見も自分に都合のよいものだけをつまみ食い的に取り上げ、都合の悪い事柄は軽視や無視することになります。これを「直観補強型思考」といいます。
誤診だけでなく、誤報や誤った逮捕・冤罪といわれるものには、「直観補強型思考」がみられます。‐医療とは何か P150~151‐
多かれ少なかれ年齢を重ねれば、直観補強型思考になりやすいかなと思います。なるべく、注意したいところですね。
◆情報をしっかり取捨選択しなさい
スッタニパータ第4「八つの詩句の章」800には、以下のように書かれています。
自分を捨てて執着しない人―― 彼はまた、知識に関しても寄りかかるものを作らない。彼は実に、特定の意見を持つ群れに与(くみ)しないし、またどんな偏見にも陥らない。
知識に関して寄りかかるものをつくらない、つまり「この人が言ってるから」、「この本に書いているから」とやみくもに信じたり、独善的にならない。言いかえれば、さまざまな知識を受け入れる余地があるということですね。
しかし、そういったさまざまな知識を、なんでもかんでも受け入れるのではなく、偏った見方になることもない。つまり、情報をしっかり取捨選択しなさいということですね。
医師である中山健夫さんは、著書『京大医学部で教える合理的思考』のなかで、「半々主義」を勧めています。
半々主義とは、すぐに完璧な答えを求めず、ある情報を聞けば「話半分で聞いておこう」、Aという意見を強く推す人がいれば「Aがあれば not Aもあるよね」というように、いったんフィフティ・フィフティの地点を経由させる考え方のことです。‐京大医学部で教える合理的思考 P103~104‐
ついつい、断言する人や権威のある人の意見などを鵜呑みしてしまいがちです。人っていうのはそういう弱さがあるもんです。
でも、この半々主義で、少しでもそういうことを薄めたいものですね。そして、そこから自分で考えるわけです。ここが大切なんですよね。
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◆常識を疑いなさい
スッタニパータ第4「八つの詩句の章」900には、以下のように書かれています。
戒めと誓いを、またこの非難されるべき行為・そうでない行為をも、すべて捨てて、『清らかであるとかないとか』望まず、こだわることなく、鎮まったものは、安らぎに向かって歩むがよい。
もはや宗教を全否定するブッダです笑
戒律とか誓いとかそんなもん捨てろって言ってしまうファンキーさ!
いまのお坊さんたちは、戒律とかなんやかんやをどう思ってるんでしょうね笑
これは隠遁生活(世俗から離れて暮らす)を勧めているようにも取れますが、もうすこし別の観点から考えてみましょう。
二宮尊徳、いわゆる二宮金次郎は「天道」と「人道」は違うことを主張しました。
天道というのは自然のあるがままのこと。つまり、雑草がボーボーになるのも、川が氾濫するのも天道です。
たいして人道というのは人に利する、つまり人々に役立つことを善しとします。雑草は抜いて綺麗にする、川が氾濫しないように堤防を築くのは人道です。
ブッダはこの人道を捨てよ、つまり一旦横に置いてみて、きちんと再考しなさいよと説いたのかもしれません。人道は常識と言いかえると、わかりやすいでしょう。
人道(常識)というのは、人の役に立つものです。しかし、それで得をするのはだれか? 既得権益者かもしれない。逆にマイノリティーな人たちかもしれない。
消費税をあげるのは常識だろ!?
女性の権利をもっと保障するのは常識だろ!?
戦争をしないために武器を捨てるのは常識だろ!?
それが人道でしょう!!
こういうものを一旦、捨てようということです。現象学的にいえば、エポケーみたいな感じでしょうか(参考:エビデンスハラスメント(エビハラ)に注意しよう!)。
清らか(正しい)とかそうでないとか関係ない。そもそも常識なんて人間がつくったいいかげんなものなんだから、そんなもんこだわるな。そして、それが本当に常識として妥当であるならば、ゆっくりとその道を歩もうではないか。
そんな感じにも受け取れるのではないでしょうか。
常識(普遍的だと思いこんでいるもの)というのは、社会構造の外に出てみないとわかりにくいものです。
海外に行ったりすると、常識と思っていたものが、じつはまったくのローカルルールであることがわかったりしますよね(参考:維摩経から学ぶ~専門外を学ぶことで専門性が見えてくる~)。
若いときに海外に出たりして、異文化に触れるというのは常識という偏見を固定化しないために役立つかもしれません。
◆欲望に振り回されない
スッタニパータ第4「八つの詩句の章」795には、以下のように書かれています。
(真の)バラモンは、突き抜けたものである。彼にとって、見たり知ったりしても捉われることはない。欲を貪ることも、欲から離れることを貪ることもない。彼にとって、この世で捉われるものなど、これ以上ないのである。
バラモンっていうのは、えらい僧侶って感じのものです。つまり、えらい僧侶は、欲を満たそうとすることも、逆に欲から離れようとすることもない。そういうこと自体にとらわれないのだよって感じですね。
ちょっと意外ですよね。仏教って「欲を捨てる」ってイメージありませんか。
でも、ブッダは欲を捨てなさいなんて言ってないわけです。欲を満たすことや欲を捨てること、そんなこと気にするなって言ってるんですよね。つまり、欲望に振り回されるなってことです。
たとえばお金。
お金が欲しい欲しいと欲に振り回されると、人間関係が壊れたり、犯罪をしてしまう。これはイメージしやすいですよね。
でも、これを意識しすぎて、お金なんか要らないよね、お金への執着なんか捨てないとねみたいに極端に考えるのもよくないよとブッダは言ってるわけです。
◆この世に変わらないものはない
スッタニパータ第4「八つの詩句の章」805には、以下のように書かれています。
人々は、自分だけのことに捉われて悲しむ。所有している物は、いつもあるわけではない。これこそが離れゆくものであると見て、在家に住してはいけない。
つまり無常。仏教の中心的な考えですよね。しかし、無常ってなんですかと訊かれると、なんだろうと答えに詰まってしまう人もいるのではないでしょうか。
弟子のラーダに「無常とはなんでしょうか?」と問われたブッダは、以下のように答えています。
「ラーダよ、われわれの肉体(色)は無常である。われらの感覚(受)は無常である。われらの表象(想)は無常である。われらの意思(行)は無常である。われらの意識(識)は無常である。」-仏教百話 P110~111-
つまり、人間を構成する物質的なもの(肉体)、精神的なもの(感覚、イメージ、意思、意識)で変わらぬものはないということですね。
細胞は日々どんどん入れ替わっています。細胞レベルで見れば、10年前の自分といまの自分は、まったく別の人といっても過言ではないでしょう。
そして、人間にかぎらず、世界自体がそのように日々移り変わっていっているわけですね。
◆極端にならずに中道をいけ
スッタニパータ第5「彼岸への道の章」1042には、以下のように書かれています。
彼は両極端を知ることのできる人であり、しっかり考える人は、中間をよしとみなす。わたしは、彼を偉大な人であると言う。
いわゆる中道ですね。中道を知るのによいエピソードがあります(『仏教百話』参照)。
あるところにソーナという僧がいました。彼は厳しい修行をしているのに、悟りを得ることができずに悩んでいました。そこにブッダがやってきます。
中道とは、簡単にいえば極端に走らないこと。
もう少し敷衍してみると、ものごとを単純化(極端化)してしまうのではなく、自分のなかで分析し、しっかりと考えて、どこに適切な落としどころがあるのかをきちんと見出す。そういうことではないかと思います。
そもそもブッダは、苦行(極端な修行)をおこないましたが、それで悟りを得ることはできませんでした。そういう体験から苦行のような極端なものでは、悟りを得ることはできないと悟ったわけですね。
そういう過程があっての中道(極端ではない状態)のススメなんでしょう。しっかり考えれば、おのずと極端な考えにはならないということも含んでいるのかもしれません。
◆ブッダが言っていることはシンプル
さて、紹介してきたことをまとめると、
・偏見をもたない
・他人と比較しない
・自分が最高と思うな
・情報は鵜呑みにせずに吟味する
・常識を疑いなさい
・欲に振り回されるな
・世の中に変わらないものはない
・極端にならずにしっかりと物事を考えよ
シンプルですよね。人が抱える悩みや生き方っていうのは、それほど大きく変わらないものなんでしょうね。
【資料】
(1)ブッダはダメ人間だった、大村大二郎、ビジネス社、2017
(2)ブッダのおしえ、前谷 彰・今村 正也、講談社、2016
(3)歴史の「普通」ってなんですか?、パオロ・マッツァリーノ、ベスト新書、2018
(4)医療とは何か、行岡哲男、河出ブックス、2012
(5)京大医学部で教える合理的思考、中山健夫、日経ビジネス人文庫、2015
(6)二宮翁夜話、二宮尊徳、中公クラシックス、2012
(7)仏教百話、増谷文雄、ちくま文庫、1985
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