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◆エビデンスを押しつけるのはEBMではない
EBM(根拠にもとづく医療)というのがあります。すごく簡単にいえば、医療の内容を経験や慣習みたいなものから、論文などから得られた科学的根拠(エビデンス)によるものにしましょうということですね。
EBMというとよくある誤解があります。エビデンスを患者に押しつけるのは非人道的で、ひととひとち異なる人間には不適切じゃないかといったものです。
まぁ、これはEBMに対する認識が大きく誤っています。詳しくは『エビデンスハラスメント(エビハラ)に注意しよう!』に書いていますので、ご参照ください。
EBMには患者さんの意向や価値観などを含めて、患者さんに適用できるのか検討することが大切であるということが含まれているんですね。
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◆科学は「意志ある選択」を与えるもの
科学というのはいったい何でしょうか。いろいろな人が、いろいろなことを言っており、一概にこれですよとは言えません。しかし、こういうものではないかという側面というか一部を垣間見ることはできそうです。
科学とは他人になにかを強制するものではない。そのことについて少し触れていきたいと思います。
中屋敷均さんの著書に『科学と非科学』(以下、本書)というものがあり、このなかで中屋敷さんは自身の母親が肝炎になったときのことを書いています。
中屋敷さんの母親が肝炎になったときは、肝炎にたいする治療が確立されておらず、中屋敷さん自身と父親は母親の治療方針をどうするか迷ったとのことです。そこで病院の治療を離れ、断食をふくむ玄米菜食療法を実践することを決意しました。
中屋敷さんは、自分自身たちのこの命がけの決断を「意志ある選択」であると言い、外部にある「常識的な理」と対比して位置づけています。常識的な理というのは、いわゆる「専門家の中での常識」や「業界の常識」といったものを指しています。
これは標準医療と代替医療の是非を問うているわけではありません。どちらかというと、能動性と受動性といった感じでしょうか。
本書では科学と「意志ある選択」について以下のように書かれています。
「意志ある選択」。科学はそれを人から奪うためでなく、与えるために存在する。
不確かさも含め、科学的知見は常に「考える素材」である。それが科学の存在意義であり、その「選択」こそが、私たちに与えられた、世界を拓く力、生きる意味、なのではないだろうか。
『科学と非科学』P175
中屋敷さんのこの考察はそうだよなと賛同できます。EBMをエビデンスの押しつけや患者さんの主体性を奪うものだと考える人は、科学がなんたるかを考えてみるといいかもしれませんね。
◆偏りを意識し内省する態度が科学か!?
しかし、なんでもかんでも天邪鬼になって、科学なんて嘘だらけ、製薬会社の罠、陰謀論だと考えてしまい、全否定にいってしまうのも考えものだと思います。
たしかに科学を担っている査読システムには、多くの欠陥があることが指摘されているのも事実です。でも、だからといって、すべてを全否定してしまうのも考えものです。
自分自身の「意志ある選択」も大切です。外部にある「常識的な理」も同じくらい大切だと思うんです。自分が偏って考えすぎてないか。そういうことを常に内省しうるような態度こそ、科学の本質なのかもしれません。
【資料】
(1)科学と非科学、中屋敷均、講談社現代新書、2019
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