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わたしは死刑制度に賛成です。その理由は・・・

 

◆はじめに

2018年7月6日、オウム真理教の死刑囚らに死刑が執行されました。

 

死刑制度については賛否いろいろあるかと思います。国際的には死刑は廃止に向かっていますし。そこですこし私の考えをつれづれに書きつらねてみることにしました。

 

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目次

◆死刑制度に賛成の理由

わたしは死刑制度に賛成です。

 

なぜなら自分の大切な人を殺されたら、相手にも同じ報いを受けてほしいから。

 

 

たとえばの話。

玄関から「いってきまーす」と言って出ていった子どもが、登校中に不審者に刺されたと警察から電話があった。

わたしが病院につくと子どもは冷たくなっていた。話しかけても返事がない。つい30分前まで笑顔だったのに。昨日の夜なんか、はじめて友だちとお泊りするんだと家のなかを走りまわりながら喜んでいたのに。先週なんか疲れているママを見て、夕ご飯の手伝いを自分からしてくれた心優しい子がなんでこんなことになってしまったのか。

冷たくなった子どもの傍らで打ちひしがれていると警察がやってきた。

「どうして……こんなことに?」

警察官は静かに言う。

「無差別のようです……。自分より弱いであろう子どもなら……だれでもよかったみたいです」

 

これは極端な例です。でも、こういう不条理なことって起こり得ますよね。最近だって、新幹線のなかでだれでもよかったという殺人鬼に立ち向かった勇気ある人が惨殺されました。

 

こういうことが降りかかったときに、あなたはどこまで赦せますか?

 

 

◆他人事だから綺麗事?

死刑制度っていうのは、一矢報いてやるという最後の方法だと思うんです。

 

「死刑ってのはね、冤罪の可能性もあるし、国家が人を殺すなんてのは…」

 

わかりますよ。たしかに死刑制度反対って綺麗ですもんね。でもね、それって他人事だからじゃないですかね?自分には関係ないからそういう風にいえるんじゃないかなと思うんです。自分の身に置きかえて考えてみることが、大切なのではないでしょうか。

 

 

わたしなら、自分の大切な人が不条理に殺されても死刑には反対ですという人しか信用できません。反対するなら臓器提供みたいに、しっかり意思表示してほしいと思います。自分の身に起きたらそれはまた話が違うよとかいうのはご都合主義ですよね。

 

 

◆遺族に死刑を執行させるのは賛同できない

死刑執行をするというのは、遺族のかわりにだれかが代わりに死刑囚を殺しているということにほかなりません。そういう心理的な負担を踏まえて、遺族が死刑囚を殺すならよいという人もいます。

 

これは江戸時代にもあった敵討ち(かたきうち)・仇討(あだうち)というやつですね。時代劇などでもでてきます。有名な赤穂浪士の討ち入りなどもこれにあたりますね。

 

じつは福沢諭吉は赤穂浪士の討ち入り(仇討・敵討ち)を批判しているんですね。福沢の言い分を読むと、遺族執行論がよろしくないのが見えてきますので、すこし引用します(原文のあとに齋藤孝さんの訳をつけてますので、読みにくい人は飛ばしてください)。

 

昔、徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討ちとて吉良上野介を殺したることあり。世にこれを赤穂の義士と唱えり。大なる間違いならずや。(中略)

身は国民の地位にいながら国法の重きを顧みずしてみだりに上野介を殺したるは、国民の職分を誤り、政府の権を犯して、私に人の罪を裁決したるものと言うべし。

幸いにしてその時、徳川の政府にてこの乱暴人を刑に処したればこそ無事に治まりたれども、もしもこれをすことあらば、吉良家の一族また敵討ちとて赤穂の家来を殺すことは必定なり。しかるときはこの家来の一族、また敵討ちとて吉良の一族を攻むるならん。敵討ちと敵討ちとにて、はてしもあらず、ついに双方の一族朋友死し尽くるに至らざれば止まず。

いわゆる無政無法の世の中とはこのことなるべし。私裁の国を害することかくのごとし。まざるべからざるなり。

 

すこし分かりにくいかもしれないので、齋藤孝さんの訳より該当部を引用します。

 

むかし、徳川時代に、浅野家の家来が、主人の敵討ちだといって吉良上野介を殺したことがある。世にこれを、「赤穂の義士」と称した。大間違いである。(中略)

国民でありながらも国法の重大さを顧みることもなく、勝手に上野介を殺したのは、国民の仕事について考え違いをし、政府の権限を犯して、自分勝手に他人の罪を裁いたものというべきだ。

さいわい、その時は徳川政府がこの乱暴人たちを刑に処したので、無事に治まったけれども、もしもこれを許していたとしたら、吉良家の一族は、必ず、また敵討ちといって赤穂の家来を殺していただろう。そのときは、浅野の家来の一族は、また敵討ちといって吉良の一族に攻撃を加えることだろう。敵討ち、敵討ちで果てしなく、最後に双方の一族が死に尽くすまで終わりがない。

いわゆる無政、無法の世の中とはこのことだろう。「私裁」が国を害するのは、このようなものだ。そのようなことはやってはいけないのである。

 

死刑制度で遺族に執行をさせるというのは、この福沢は指摘していることと同じではないだろうかと思うのです。国家が遺族の代理として執行をすることに意味があると思うんですよね。第三者が執行人の場合の心理的負担などは、お金や発達している機械的技術などをもってなんとか代用できないものでしょうか。

 

 

◆死刑制度に賛成、しかし慎重であるべき

死刑制度に賛成=どんどんやっちゃえというわけではありません。

 

死刑制度の賛否を語るときには、冤罪という問題を避けては通れません。死刑執行したけど、実はその人が犯人ではありませんでした!なんてことはあってはいけません。

 

しかし、人間が判断する以上、その過ちを犯す可能性はかならずあります。ですので、死刑は慎重に扱わなければなりません。冤罪の可能性があるのなら、死刑をくだせるのは現行犯だけとかにしてもいいかもしれません。それなら冤罪のリスクは低くなるでしょう。

 

 

◆おわりに

つれづれに死刑制度について思うことを書いてきました。わたしは倫理やら法の専門家ではないので、変なことを書いてるかもしれません。

 

みなさんはどうお考えになりますか?

 

【資料】

(1)現代語訳 学問のすすめ、齋藤孝、ちくま新書、2009

 

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