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西きょうじさんの『さよなら自己責任』という本がありますが、そのなかで小林秀雄の『美を求める心』というエッセイが紹介されていました。
このエッセイは昭和33年に、小中学生を対象にして書かれたものとのこと。まずは引用して紹介しましょう(括弧内のふりがなは引用者による)。
見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例
えば、諸君が野原は歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見 たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。なんだ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。 諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう眼を閉じる
のです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。 菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置
き換えて了(しま)うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、 花は諸君に、嘗(かつ)て見た事もなかった様な美しさを、それこそ 限りなく明かすでしょう。 『さよなら自己責任』P142
日本人は以心伝心とか言わぬが花みたいなものを美徳というか、伝統としてとらえている側面があるので、この小林の「言葉にすること」の無粋さというか野暮ったさは、感覚的に理解しやすいのではないでしょうか(こんなん小中学生にわかるかな?とは思いますが笑)。
このエッセイは美に対する考えを述べたものですが、言葉の確実性に対する絶対視にたいして、不信を提言している側面もあると思います。つまり、言葉なんてものを信用しすぎたらダメよということです。
日本人は先に述べたように、もともと言葉にするのは無粋であるといった価値観みたいなものがあったように思います。その後、徐々に欧米化によって言語化することがとても重要なものであるといった風潮が強くなっていくなかで、醸成されていった言語の確実性への風潮にたいする反動も含まれているのではないかと思ったり。
なにかを伝えようとするとき、言葉にしないと伝わりません。言葉にしなくてもわかるのは、テレパシーが可能か勘違いしてる人だけでしょう。
しかし、言葉にしたからといってすべてが伝わるということでもない。そもそも言葉というのは、とても抽象的なものです。言葉にするということは、その一方で多くの要素を捨象しているわけです。
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ときおり「君の言っていることは抽象的でよくわからない」や「もっと具体的に言ってくれ」といったような批判をしている方がいますが、これはとても矛盾しているということに気づいているでしょうか?
細谷功さんが著書『自己矛盾劇場』のなかで、以下のように指摘しています。
「言葉を使うこと自体が高度な抽象化能力の産物」であることをすっ
かり忘れて、他でもないその言葉を使って抽象化を(抽象的に)批判することは、典型的な自己矛盾です。(中略) 例えば「抽象的で
よくわかりません」と裏返しの言葉と言える「具体的に言えと、 何度言ったら分かるんだ?」という言い方、これも強烈な自己矛盾で す。「具体的」と言う言葉自体が相当抽象的だからです。(中略) そも
そも「具体的」という「抽象度の高い言葉」を相手に投げかけ、 相手がその要求(具体的に言うこと)を「具体的にイメージでき ない」にもかかわらず、「具体的に言えと、何度言ったらわかるん だ?」などと、繰り返し要求するのは、もはやお笑いの域に入って いるようにも見えます。 『自己矛盾劇場』P42-43
まぁそうは言っても、日常生活のなかでもっと抽象的にとか具体的にというのはありますよね。しかし「言葉の性質」(言葉は非常に抽象的なものであるということ)をもうすこし意識して、相手に語りかけるだけでも、もうちょっと導き方というか指導の仕方が、よりよい感じになるのではないのかなと思ったりもします。
もっとシンプルに言えば、言葉の伝達力といったものを盲信しないということですね。佐藤信夫は著書『レトリック感覚』のなかで以下のように述べています。
ことばの忠実な表現力=伝達力を信じすぎている素朴な、あるいは思い上がった人々がいかに容易にうそつきになるか。言語盲信とその裏がえしの言語不信は、実際上がかなり近いところにある現象で、本当は自覚的な言語「半信」こそ、もっとも健全な姿勢であろう。
『レトリック感覚』P59
言葉はすごく便利ではあるけれども、言葉は文化や構造に依拠するところが大きく、その不確かさや脆弱さを知る(意識しておく)ということは大切な気がします。
【資料】
(1)さよなら自己責任、西きょうじ、新潮新書、2018
(2)自己矛盾劇場、細谷功、dZERO、2018
(3)レトリック感覚、佐藤信夫、講談社学術文庫、1992
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