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セミナージプシーに注意せよ~『デカルトの憂鬱』からの思索~

忙しい人のための要約
セミナー自体に依存している、セミナーをわたり歩くことをセミナージプシーという。今回はセミナージプシーについて津崎良典さんの著書『デカルトの憂鬱』を参考にしながら、セミナーへの取りくみ方などについて考えてみた。

 

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目次

◆情報だけを求めさまようセミナージプシー

 

セミナージプシーという言葉があります。ジプシーとは「一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている」(Wikipedia)という意味です。

 

そこから、いろいろなセミナーを受講している人のことを揶揄して、セミナージプシーと言うようです。ちなみに、ジプシーという言葉は差別用語になっているようなので、使用するのは注意が必要でしょう。

 

 

◆デカルトから学ぶ

最近、津崎良典さんの『デカルトの憂鬱』という本を読みました。デカルトの哲学を紹介しているものですが、そのなかで「驚く」ということについて書いている節があります。

 

それが、セミナージプシーにならないために有用であるように思いましたので、紹介しようと思います(引用部分:「」内はデカルトの著書、ページ数は『デカルトの憂鬱』)。

 

 

1.驚きは学びのはじめ

ルネ・デカルト

 

デカルトは、「驚くこと」が学びにとって、非常に重要であると認識していたようです。

 

驚くことが有益なのは、それまで知らなかったことを私たちに学ばせ、記憶にとどめさせるからだ。

『デカルトの憂鬱』「情念論」P47

 

たしかに、あっと驚いたことって記憶にとどまりやすいような気がします。そして、驚きを端緒にして、そこから調べるということに繋がることも多いですね。そもそも驚きがないと、なにかを調べようと思いたつことも少ないような気がします。

 

デカルトは驚きに鈍い人のことを、「無知である」とか「愚かな人」と批判的にみています。

 

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2.驚くことだけが目的になってしまうのはダメ

しかし、デカルトは驚くことは大切であるが、驚きすぎる(過度な驚き)については戒めています。

 

〔過度な驚きの情念は〕私たちをして、目の前に現われた対象の最初のイメージだけに注意を向けさせる。そのために私たちは、この対象についてそれ以外の知識を手に入れることがなくなってしまう。

その時この情念は、他のどのような対象が現れてもそれが少しでも新しく見えるなら、精神が同じやり方で気をとられてしまう習慣を後に残す。

『デカルトの憂鬱』「情念論」P55

 

セミナージプシーの人たちは、デカルトが指摘しているような状態になっているのではないでしょうか。つまり、過度な驚きをもたらしてくれるような、目新しい情報のみに意識が向いており、そこから発展しないということです。

 

たとえば理学療法士向けの治療のセミナー。

 

「肩の痛みを足の治療でとる!」

「たった5分の治療で痛みが消える!」

 

こういった目新しさを謳ったものが散見されますが、その新奇性だけに注意が向き、そこから「生理学的な機序は?」や「比較対照しているのだろうか?」みたいなところに注意が向かないといった感じでしょうか。

 

デカルトは、こういったことを「盲目的な好奇心を持つ人々の悪癖」として、問題視しています。大雑把にいえば、「知識」と「情報」の分別がついていないといった感じでしょうか。

 

筆者の津崎さんは、「知識」と「情報」の分別について、以下のように言及します。

 

好奇心旺盛な人は、自分が見たり聞いたりして学んだことが本当に「知識」の名に値するかを吟味しないまま、蝶々のようにあちこち飛び回って、中には魔訶不思議なものも含まれる「情報」の収集に余念がないからです。(中略)

知識が多いか少ないかという量的な意味での不十分さが問題視されているのではない、ということです。むしろ、自分の知識は本当に正確なのかどうかという質的な側面が問題になっている。

ですから、もし好奇心が満たされないとしたら、それは、自分の知識量が足りていないからというより、自分の知識が疑わしいものであるか、あるいは単に確からしいものでしかないからです。要するに「情報」でしかない。

『デカルトの憂鬱』P56-57

 

これはすごく重要な指摘であるように思いました。

 

セミナージプシーの人は、「知識」ではなく「情報」の収集に右往左往しているというわけです。要は場当たり的、表面的なことばかりに注意が向いてしまい、そこからの吟味といったものが欠けているということです。

 

吟味せずに流してしまうから、いわば成長せずにいつまでも同じようなことを延々とくりかえしてしまう。大切なのは、自分が見聞きした「情報」を批判的に吟味して、それが「知識」と呼べるか否かを、きちんと再検討することなのではないでしょうか。

 

 

3.多くの知識から驚きを考察せよ

デカルトは、以下のような打開策を提言しています。

 

過度に驚くことを控えるための治療法としては、多くのものに関して知識を手に入れて、きわめて希少かつ奇異に見えるすべてのものについて考察する訓練を積む以外にない

『デカルトの憂鬱』「情念論」P58

 

情報を入れるなと言っているわけではなく、きちんと情報を吟味し、それらを基本としなければならないということでしょう。前提、土台となる知識がないことには、新しい「情報」が「知識」となりうるかを検討することはできません。

 

そのためには、科学的方法の見かた、今風にいえばメディアリテラシーを学ぶことが重要なのではないかなと思ったりします(以下の本は重要なポイントが詰まっているのでオススメです)。

 

たとえば反ワクチンといったものを見ていると、ひとつの症例を過度(感情的)にピックアップしたり、反対意見を無視したり、そういうのではよろしくないと思うんですよね(反ワクチンを学ぶときに、以下の本は有用と思います)。

 

そういうメディアリテラシーをもとに多くの知識を取りいれながら、考察する練習をしていく。そういうことをデカルトは提言しているのではないかなと思いました。

 

なにか新しいもの、なにかすごいものといった風にセミナー、セミナーと右往左往している人は、ひとまず立ち止まり、自身について考察してみるのが大切なのではないでしょうか。驚きは大切ですけども、驚き依存になってしまうのは危険ということですね。

 

【資料】

(1)デカルトの憂鬱、津崎良典、扶桑社、2018

 

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