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【自立は依存先を増やすこと】相互に依存できる社会へ

要約

自立は幻想です。世のなかに自立している人なんていません。誰しもが誰かに依存して生きているのです。見栄を張らない、多様性を認める、努力に固執しない。そういう小さな積み重ねを実践し、自立の社会から依存しあえる社会(頼れるところが多い社会)を目指したいものです。

目次

はじめに

先日、Twitterでとある記事を見て、コメントしたところ少なからず反響がありました。

自立とは依存先を増やすこと

紹介されていた記事は『自立とは「依存先を増やすこと」』。

感銘を受けたので、少し長くなりますが一部引用します。

私は、生後すぐに高熱が出たことなどが原因で脳性麻痺となりました。手足が不自由なため、中学生の頃から車椅子を使っていて、日常生活を送る上では他者の介助が欠かせません。

私が生まれた1970年代には、脳性麻痺は早期にリハビリをすれば9割は治ると言われていました。このため、私の親は私が物心つく前から、膝立ちの仕方、寝返りの打ち方、茶碗の持ち方など、毎日5、6時間にも及ぶ厳しいリハビリをさせました。すべては、私をできるだけ健常者に近づけ、独り立ちできるようにしようという、愛情ゆえにしたことです。

ところが1980年代に入ると、脳性麻痺は治らないという医学論文が発表されたのです。そして、それに呼応するかのように障害そのものに対する考え方が180度変わり、 「障害は身体の中ではなく外にある」という考え方がスタンダードになりました。例えば、私が2階に行けないのは私の足に障害があるからではなく、エレベーターがないからだ。だから、社会や環境の側を改善していこう、と考えるわけです。

こうした考え方が広がると、街中で障害を持つ人に出会う機会が格段に増えました。それまで私は常に親と二人三脚の生活をしてきたため、「親が死んでしまったら自分も生きていかれなくなるのではないか」という不安を幼い頃から抱えていました。ところが、街で見かける人の中には自分より重そうな障害を持った人もいる。その人達がありのままの姿で自由に暮らしているのを見て、「リハビリをしても治らないけれど、健常者にならなくても社会に出られるんだ」という確信が芽生えたのです。(中略)

親は、「社会というのは障害者に厳しい。障害を持ったままの状態で一人で社会に出したら、息子はのたれ死んでしまうのではないか」と心配していたようです。でも、実際に一人暮らしを始めて私が感じたのは、「社会は案外やさしい場所なんだ」ということでした。

大学の近くに下宿していたのですが、部屋に戻ると必ず友達が2〜3人いて、「お帰り」と迎えてくれました。いつの間にか合い鍵が8個も作られていて、みんなが代わる代わるやってきては好き勝手にご飯を作って食べていく。その代わり、私をお風呂に入れてくれたり、失禁した時は介助してくれたりしました。

また、外出時に見ず知らずの人にトイレの介助を頼んだこともあります。たくさんの人が助けてくれました。こうした経験から次第に人や社会に関心を持つようになり、入学当初目指していた数学者ではなく、医学の道を志すことを決めたのです。

それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。

自立の鬼

そもそも自立とはなんでしょう。いろいろな解釈があるようですが、これという決まったものはなく、広義的に使われています。

他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。

goo辞書

世の中には、自立の鬼がいます。

人に頼るな。自分自身の努力だけで乗り越えてこそ一人前。

そんなことを言いながら、心の奥ではだれか助けてくれないかなぁなんてことを思ってるんですがね。非常に屈折した依存心を持っているのが自立の鬼です。

日本の男性はベビーカーを持たない?

このような記事を見つけました(『男がベビーカー女子を助けない2つの理由』)。

日本人の男性は、駅でベビーカーを運んでいる女性を助けないそうです。記事を書いているジャーナリストによると、「騎士道精神(日本風にいえば武士道かな)を教育されなかったこと」と「過酷な勤務状況」によるものでないかとのこと。

そして、結論は、言いづらいかもしれないけど「助けてくれませんか」と言いましょうとのことでした。

私にはよくわかりませんでした。

男性にベビーカーを運ぶのをお願いすることは、そんなに屈辱的なことですかね。もしかしたら、恥ずかしいのかもしれません。

そうだとしたら、男性を責めるのは筋違いだと思うわけです。

恥ずかしいというのは、自分をよく見せたいということの裏返しです。つまり、見栄です。

自分の見栄を気にするあまり、男性にお願いすることもできずに、結果として助けてくれない日本人の男性は騎士道がないだとか言ってるわけです。そして、最終的に自分で全部しないとダメなんだという自立の鬼になってしまうのでしょう。

私は自分の見栄のために他人を責めたり、悲劇のヒロイン気どりする女性に同情なんてできません。素直になればいいんじゃないですか?

みんな依存して生きている

世の中に自立して生きている人なんていません。自立とは幻想です。みんなが互いに依存して生きている。これが社会の現実です。自立の鬼はそんな現実を見ないで、見栄を張って生きているのです。または、たんなる甘え下手なんでしょう。

1960年代、アメリカでは自立生活(IL)運動というのが起こりました。

障害を有した人たちにも、主体的な生活を送ることができる権利があることを認めたものです。この運動が「障害者は保護するもの」という概念を、取り払ってくれたわけです。そのIL運動のキャッチフレーズにこのようなものがあります。

~他人の手を借りて衣服を15分で着て仕事に出かけられる障がい者は、何時間もかけて自分で着替えるけれど、そのために仕事に出かけられない障がい者より自立している~

意固地になってひとりで頑張るよりも、人には長所短所、向き不向きがあることを認めて、互いに補っていく。そっちのほうが効率的な場合もある気がします。

手前勝手な努力は邪魔になる

努力することが最善だと思っている人がいます。たしかに、努力することは悪いことではありません。自分の目的を達成するために必要なことでしょう。

でも、努力することが目的になって、視野が狭くなっている人がいます。そういう人は努力している自分が好きなんでしょうけど、社会では邪魔になってしまいます。不得意なことは、得意な人にお願いしたらいいんです。

自分もできるから他人もできる?

自分にもできるんだから、ほかの人にもできる。こういったことを言う人がいます。謙遜してるのかもしれませんが、非常に危険な考え方であるとも思います。

人は多様なんです。いろいろな人がいるんです。

それを無視して、均一(みんなが同じような能力をもっている)を前提に考えているのが上の発言です。こういうのは、下手すると努力が足りないという論法になりがちです。「自分ができるのだから、お前にもできるはずだ。出来ないのはお前の努力が足りないからだ」。

自立の鬼が出てきましたね(笑)

でも、自分と相手は違う人間なんです。それは、すべての人間にいえることです。世の中に、同じ人間なんていません。

自分にできても、他人にはできないことがある。

こういうところからスタートしないと、自立の鬼になってしまうと思います。

自立の幻想を捨てよ

私たちは生まれてから死ぬまで、かならず誰かの助けをかりて生きています。「自立している人」なんて、この世にはいません。私たちは他人に迷惑をかけながら、かけられながら生きているんです。

そういう現実を無視した自立の鬼にならないよう注意しないといけません。

自立は幻想なんです。

不登校の子どもがいたら、無理やり学校に行かせるのではなく、インターネットや通信などを使えばいい。ご飯を作れないなら、宅配サービスを使えばいい。お風呂に入れないなら、タオルで拭いてもらえばいい。

世の中は持ちつ持たれつです。節度をもって他人に依存して、甘えていけばいいんです。最初に載せた記事のように、依存先(頼る場所)を増やすことが大切だと思います。自立の幻想を捨てましょう。

【資料】
(1)理学療法の基層、藤澤宏幸、北樹出版、2016
(2)リハビリテーションの哲学、八重田淳、法律文化社、2001
(3)反社会学講座、パオロ・マッツァリーノ、ちくま文庫、2007

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