忙しい人のための要約
    1980年代後半から完璧主義者が増加しており、完璧主義者は自殺念慮を抱きやすいことが示唆されています。完璧主義思考から脱するために論理療法を用いてみるのもひとつの策として有用であるように思います。

     

     

    ◆完璧主義者が増えている

    1989~2016年のあいだに、完璧主義の度合いをはかる質問票(multidimensional perfectionism scale)に答えたアメリカ・カナダ・イギリスの大学生4万1641人を分析した報告があります(1)。

     

    この質問票では完璧主義を、以下の3つのタイプに分類しています。

     

    ①自己志向完璧主義(self-oriented perfectionism):自分の意思により自身に完璧さを求める

    ②社会規定完璧主義(socially prescribed perfectionism):外部(他者や社会)の意思により自身に完璧さを求める

    ③他者志向完璧主義(other-oriented perfectionism):他者に完璧さを求める

     

     

    調査の結果、1989年から2016年のあいだに、「自己志向」は10%、「社会規定」は33%、「他者志向」は16%上昇していました。

     

     

    ◆完璧主義者は自殺願望をもちやすい

    学生や精神疾患を有する患者など1万1747人を対象にした、45の研究をメタ分析した報告があります(2)。その報告では、完璧主義と自殺念慮(「自殺をしたい」という強い考えや意志に反した自殺衝動が頭のなかで満たされること)の関連性について調べています。

     

    結果としては、自己志向と社会規律は自殺念慮と正の相関があり、とくに社会規律の相関が強かったとのこと。他者志向は、自殺念慮とあまり関係はなかったようです(ちなみに親の批判的態度や期待なども自殺念慮に関わっている)。

     

    もうすこし柔らかくいえば、完璧であろうと自分に厳しい人や周りの期待に応えようと頑張りすぎる人は、自殺の気持ちをもちやすく、他人に完璧を求める憎まれっ子みたいな人は自殺の気持ちを抱きにくいという感じです。

     

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    ◆自分の「べき思考」「ねばならない思考」を考えよう

    完璧主義には、「べき思考」・「ねばならない思考」というものがあるように思います。たとえば、「どんなときでも他人は親切にすべき」とか「わたしは人のために頑張らねばならない」といった感じです。

     

    心理療法のひとつに論理療法というものがありますが、論理療法ではこういった「べき思考」や「ねばならない思考」をイラショナルビリーフ(非論理的な信念)といって、なるべく避けたほうがよく、適切な思考に変換したほうがいいとしています。

     

    たとえば、先述した例文であれば、「他人に親切にするに越したことはないけれど、自分の体調や好き嫌いもあるから、誰しもに同じように親切にするのは難しいかもしれないが、それも仕方がない」とか「人のために頑張ることはよいことだけど、それができなくても仕方がないし、できる範囲でやればいい」みたいな感じに、現実的なもの(ラショナルビリーフ)に変えていくことがよいわけです。

     

    そもそも、世のなかには絶対的な「べき」・「ねばならない」といったものはほぼありません。「絶対に殺人をすべきではない」といっても、暴漢に襲われたときまでそんなことを考えでいたのでは、殺されてしまいます。

     

    暴漢に襲われたときには、殺されないために致しかたなく相手を殺してしまう、つまり正当防衛をすることは論理的にも妥当でしょう(もちろん殺さなくてもいいのであればそれに越したことはありません)。

     

    「殺人はしないことに越したことないけれど、相手が危害を加えてきそうなときなど生命の危機のときには止むをえない場合もある」といったほうが、より現実的で、適切であると思います。

     

     

    ◆法華七喩~ウソは絶対ダメ!? そんなことはない~

    経典『法華経』には、法華七喩といわれる7つの物語が書かれており、そのなかに三車火宅という話があります。飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』より引用して紹介します。

     

    ある日のこと、父親が帰宅してみると、自分の家が火事になっていた。家の中にはまだ彼の子供たちがいた。それに気づいた父親は、あわてて叫んだ。

    「火事だ! 早く外に出なさい!」

    しかし、子供たちは遊びに夢中で逃げようとしなかった。子供たちは二階の窓から顔だけを出して、外にいる父親にこう言った。

    「パパ―、おかえりなさーい、いま遊んでいるから後でねー」

    「だいじょうぶ、これ終わったら行くからー」

    「ねぇ、おにいちゃん、火事ってな~に?」

    父親は真っ青になった。いったいどうすればいい!? モタモタしていたら、火が完全に家じゅうにまわってしまい、外に出ることもできなくなってしまう。子供たちに、火事の恐ろしさを説明している暇なんかない。あの無邪気な子供たちが火に包まれ、絶叫しながら焼け死んでいく映像が頭をよぎる。そんな悲惨なこと、絶対に、絶対にあってはならない!

    追いつめられた父親は、子供たちに向かって悲鳴のような大声でこう叫んだ。

    「こっちにもっと良いオモチャがあるよ! パパ、買ってきたんだ! さぁ、こっちで一緒に遊ぼう!」

    「ええええ!? ほんと!?」

    「オモチャどこ? 僕が先だよ」

    「わああああ、おにいちゃん、待ってよー!」

    父親の言葉に子供たちは一目散に家の外へ飛び出してきた。その瞬間、火の手は家を覆いつくし、家は無残に崩れ落ちた。九死に一生を得て無事に家の外に出た子供たちを、父親は泣きながら抱きしめた。

    「ごめん……、 ごめん……、 ウソなんだ」

    史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』P337ー338

     

    こういったウソを「方便」といいます。方便というのは、目的を達するための便宜上の手段のことです。一般的にウソはつくべきではない、ウソをつくのは泥棒のはじまりだと批判されます。

     

    しかし、そんなことを信じていては、先述の子どもたちは火事で焼け死んでいたでしょう。ものごとを柔軟に考え、なにが自分にとって幸せなのかを考えないと、人生が辛くなってしまいがちです。「基本的にウソはつかないほうがいいかもしれないが、時と場合によってはつくことも大切だろう」と、現実的・利益的に考えを修正するのがよいでしょう。

     

    このように、自分の「べき思考」や「ねばならない思考」を内省していくのが、完璧主義から遠ざかるのによいのでないでしょうか? 

     

    ふとしたときに、無意識レベルの「べき思考」・「ねばならない思考」が出てくるように思います。Twitterなどをしていて、自分と意見が異なる人をみて、「○○ならこうあるべきだろ!」みたいに考えてしまうことってありませんか? そういうときに、「でも、この○○であるべきって自分の思いこみじゃないのかな?」って考えられるといいのではないかと思います。

     

    論理療法を日本に持ちこんだ國分康孝さんの本がオススメなので、完璧主義になりやすい人は一読をおすすめします(今年お亡くなりになったとのことで、非常に残念です)。

     

     

     

     

    以下は國分さんの本ではありませんが、論理療法をイロハを学ぶのに有用だったので、ご紹介しておきます。『めぞん一刻』や太宰治の『人間失格』などを用いて説明するなど、読みやすくなっています。

     

     

    ◆もっとゆるく考えてみよう

    さきほど紹介した國分康孝さんの『18歳からの人生デザイン』に、完璧主義にとらわれてしまい、家族を不快にさせてしまう父親の話があります。

     

    ある女子中学生が父親とけんかした。どうしてけんかしたのか。家に帰ったら、父親が「女のくせに、お前、愛想がないじゃないか」と怒ったというのです。実は、彼女は体育会系の部活動に入っていて、その日は運動場を五周か六周、走ったあとでした。クタクタになっていて、愛想どころではなかったわけです。

    もし父親が、「いつもの笑顔がないが、どうかしたのか」と言ってくれたら、彼女は、運動場を六周も回ったから今日はもうヘトヘトだと言えたのです。ところが、いきなり「女のくせに愛想がない」と言われたので、腹が立ったのだと言います。つまりこの父親は、「女性はたえずニコニコしていなければならない」という考え方にこだわっていたということも言えるわけです。

    『18歳からの人生デザイン』P36-37

     

     

    國分さんはそういう「とらわれ」から脱して、自由人になることをすすめます。しかし、その自由に限界があることにも言及しています。

     

    しかし私たちの多くは、この父親と同じように「ねばならない」という考え方に縛られているので、そこから、ときどき、自分を解放する自由な心をもたなければなりません。それのできる人が自由人です。俗に言う自由人こそ、少しは人の心がわかる人なのかもしれません。

    しかしそこまでしても、人の心を傷つけることはありえます。私たちは全知全能の神ではないからです。いくら努力をしても人の心には見えないところがあって、そのために人を悲しませたり怒らせたりすることがあります。これには、人間としてやむをえないことだから勘弁してくれと言うしかありません。勘弁してくれと祈りつつ、生きていくしか手がないのです。

    私が人を許すように、人が私を許してくれたら、それに越したことはない……。結局、この程度の気持ちで生きていったらどうかと思うのです。

    『18歳からの人生デザイン』P36-37

     

     

    人の気持ちはわかりません。わかっていると思っているのなら、それは勘違いだと思います。仲のよいカップルでも、相手のことは自分が思っている半分くらいしか理解できていないという報告を以前に紹介しました(参照:話を聞かない医療者~「医療現場の国際化」で求められる能力~)。

     

    人の気持ちはわからないので、それによって行きちがいや誤解が生まれるのは必然です。ゆえに、相手にもっと理解してほしいと思い過ぎてしまうのも、苦痛の原因になってしまうかもしれません。「とらわれ」から脱するのも大切ですが、それにとらわれてしまうのもよろしくないですね。

     

    なにごとも、ほどほどに考えられるのがいいのだと思います。

     

    【資料】

    (1)Perfectionism Is Increasing Over Time: A Meta-Analysis of Birth Cohort Differences From 1989 to 2016.[PMID:29283599]

    (2)The perniciousness of perfectionism: A meta-analytic review of the perfectionism-suicide relationship.[PMID:28734118]

    (3)18歳からの人生デザイン、國分康孝、図書文化、2009

     

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